<東京古代史研究会>

解説:東京古代史研究会は、長年、東京を中心に幅広い部門で歴史研究を続けてきた「先古代史の会」が前身です。先古代史の会は2021年11月前田豊会長の高齢上の理由で退任に伴い、副会長の平山牧人が就任するに当り、同時に東京古代史研究会と改名し、継続することになりました。

顧問 後藤昭彦氏(前名誉会長)
名誉会長 前田豊氏(前会長)
会長 平山牧人(前副会長)

改名に伴い、新理事等は検討中ですが、古代歴史の謎の解明にやる気のある方は当方まで連絡下さい。

<東京古代史研究会>の2大目標

1.混迷を続ける邪馬台国所在地論争を他研究会に先んじて5年以内(2022~2027年)に解明する。

2.依然として日本へ来たかどうか未決着の徐福の問題を他研究会に先んじて5年以内に解明する。

(解説)

A.邪馬台国は現在2大論(畿内九州説)が中心となり、実に30年以上、争っているが、未解のままである。なぜこのような事態になったか。私共はこの2大論の真ん中にある岡山(吉備国)を重要視しなかった事が、未解決の原因になったとみる。

B. 邪馬台国論が未決着になった理由のもう一つの理由、それは邪馬台国の終焉の記録がない事を、両論者は勝手に3世紀の末ごろに終焉したとしている事である。

私共は邪馬台国は7世紀まで存続していたと考えている。その理由は、天皇制称号の発生の問題である。天皇という言葉はいつから正式に発生したのか記録がないのである。何故か2大説の方は興味をもたない。

私共はそれは倭国軍が白村江へ出発する時に天智天皇によって備中で発生したものとみる。

つまり、それまで天皇とは実は大王であり、倭国に大王制が存続している限り首都は邪馬台国にある事になる。つまり、邪馬台国は滅びていなかったのである。

しかし、天智天皇(大友)軍は滅んだ。このため、壬申の乱以後、初めて奈良に新しい都が作られた。新京(藤原京)で、邪馬台国は日本書紀に畿外の古京とされた。古京とは飛鳥ではなく岡山(吉備)である。

つまり、天皇制の正式発生地は奈良ではなく岡山であったため、邪馬台国の記述は出来なかったのである。

C.紀の命令者・編者について

命令者の天武天皇は、高句麗に亡命した百済王豊璋であった可能性が高い。また、記述の責任者の大伴旅人は熊襲である。百済とは高句麗と同じく熊信仰の国でつまり熊襲である。

つまり、紀は日本の南九州の熊襲と亡命百済の熊襲の2つの熊襲の合作である。

この時、藤原不比等は律令制作に追われタッチしていないと不比等は排除されたのである。720年以後、不比等排除の日本書紀は<日本紀>である。

D.記紀の記述は暗号表証されている。その名は例えば<倒語>という。忍法の原理であり、熊襲系の暗号である。<暗号史学>が現在の史学科に無いため、全く暗号に対する理解能力の無い人によって邪馬台国が論じられ不毛の論争になっている。先ず熊襲と暗号の研究をすべきである。熊襲とは具体的に大伴氏・日下氏=丹比氏である。これを知っているから、私共は日本で早く邪馬台国を解明できるといっているのである。

E.西日本の遺跡(神籠石系)山城とは、鬼道を再現し邪馬台国(連合)を再現したものである。この時、対唐戦は全く意識されておらず、白村江の戦いの前に終了している企画者は高尚玄理(斉明天皇の前夫)高尚王で、斉明天皇の前夫。

しかし、舒明天皇の死の前後、帰国した高尚玄理は男女関係を復活させた。現職の女性天皇は男性関係を持ってはいけないのに、斉明天皇はタブーを犯した。

そして神籠石系は、その中心に天皇の宮(天宮)として鬼の城(総社市)を築造する事で終了した。

東京古代史研究会今後の予定